尾上松之助―日本最古の映画スター“目玉の松ちゃん”のすべて
尾上松之助語録・資料
尾上松之助語録
以下の文章は、音羽屋尾上松之助述、磯野松風編『尾上松之助自叙傳』(春草堂出版部、1921年)からの抜粋である。ただし、漢字・かな等の表記は尾上松之助、中村房吉『岡山文庫 178 目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界―』(日本文教出版、1995年)に従った。
最初の撮影碁盤忠信
初めて、そのフィルムが出来上がってその映写を見た時、私はただ、異様な感に打たれるのみだった。
自分の寝顔を見た事、活動しつつある姿を見た事、今から思えば当然の事ではあるが、その時の私としては見得られぬ不審な物を見得たようにただ妙な感じに打たれた。鏡で自分の顔を映するは出来ても一度その前に目を閉ずればもう、見る事は出来ない如何なる明鏡を持ってするとも写真を以ってするとも、自分の刻々に活動せる姿はその鏡を自分が注視している時でなくては見る事が出来ない。それがこの映画によってそのきまった様な過去の私の考え方が根底から破られた。
撮影した連中は誰れも彼れも、面白そうに、自分は、あのような物かと言ったような心持ちに、よると触るとその事ばかりを話し合った。(『尾上松之助自叙傳』115-116頁/『目玉の松ちゃんー尾上松之助の世界』95-96頁)
私の日常生活
私の起床は、四季の期節によりて多少の相違はあるが、当今では七時床を離れる。洗面して、まず神仏に礼拝して食膳に向かうのを常としている。
私はどっちかと言えば手軽好きの方であるから、菜も余り小言は言わない。香の物二種、味噌汁、御飯一杯しか食し得ない。この間が約四十分、すぐと俥をとばして撮影所に向かう。道筋は、堀川を北へ、下立売を西へ千本通りを北へ下長者町を、母の宅へと必ず立ち寄る。俥から下りて父の仏前に再び礼拝をして、母の機嫌(きかい)を伺い後六軒町を北へ、鍋町を西へ、大東町を北へと走らせて、遂に撮影所へと到着するのでその道のりは約十五町、時間は大抵、八時三十分位で、私は日活に入社以来いまだ一度も遅刻した事はないのである。
それから自分の椅子にかかって、茶を啜りながら、その日の日課をとくと考え、受持のマネジャ(マネージャー)と相談の上、着手する。およそ五場程撮影している間に、昼食(ちゅうじき)となるからしばらく休憩して食事にかかるので、昼食は近所の料理家から、四五種のものを取り寄せるにきめているが、なるたけは精進物を好んでいる。
昼食後はまた一しきり撮影して、午後五時前が閉業。早速、再び俥上の人となって、朝の道を通り、また母の家に立ち寄る。母の無事な温顔を拝して、茶をのみ、明朝を期して辞し帰る。
家に着くと早速、湯にはいって、湯から上がると女中の持って来てくれる毎日新聞と、諸方皆々様から、御心づくしの御手紙等を逐一拝見して、後夕飯となるわけである。
夕食の食品は別に定めていないが、やはり御飯は一杯二杯よりは多くは食し得ない。これは昔からの習慣である。酒は約一合を夕食にとっているが、五六七八九の五ケ月はビール一本を用いる、がこれは時に多すぎる事がある。
私の好物は、天ぷらと来たら二人前や三人前は何んでもない、がやはり肴は好まず精進あげに限っている。私は一体に甘いものが好きで菓子は何んでも大概の人に負けない程食う。(『尾上松之助自叙傳』135-137頁/『目玉の松ちゃんー尾上松之助の世界』109-110頁)
活動写真に対する研究と今後の覚悟
事新しく言うまでもなく私等は全くの無知である、盲目である。ただ自分の経験から、可と信じた方法を演出しているに過ぎないのでそれでも少し時間の猶予もあらば、まだしもだが、皆様すでに御承知のように時間は一寸もない。
出来上ったヒルム(フィルム)を見ては、あら情けない、焼き捨ててでもしまいたいと思う事はあっても、如何ともならず、そのヒルムはぐんぐん地方へと廻わされて行くので、これだけは万代かけて取りかえしがつかない。
勿論、自分の姿を自分で見るのだから進歩しやすいといわばいわれるが本当の我等の苦心と言えば、今の所、批評して下さる人々が申さるるような表面に現われた点によりも、返ってかくれた所に黒人(くろうと)としての苦労も苦心も喜びもある。
何んでもない事だが立廻わり一つにしても、町人、武士、武家の女町家の婦女、老人、少年と様々あるはもちろんながら、その中でも奥義を極めた者や極めぬ者等の腰の構え等、様々と、その刹那刹那の苦心を多くのその方面にとられてしまう。
それに、その上ごく短時間ずつの演出を、今は此所、次は彼所と転々場所や役は変りながら、衣装や鬘は一寸も変らない。相手の役者自分も千篇一律の形と色彩でしているので、第一気が変らない。自分自身にさえ今が、なんだと考えかえす程目眩るしい事があるのだから、性格に対しての理解も混同してしまったりする事がある位だから、ましてそれ等よりもっと優った、大きな問題となると、どうにもこうにも、特作映画としてでも気長に製作せねば、容易に理論の如くには行くものでない。
と言って、私は自分の責任を回避しよう等とは決して思っていないがただ悲しいかな、今の所では、私等の微力如何とも致し方ないを告げたまでである。(『尾上松之助自叙傳』144-147頁/『目玉の松ちゃんー尾上松之助の世界』116-118頁)
尾上松之助 映画館資料
上掲のポスターなどを展示した、東京国立近代美術館フィルムセンター(当時)主催による2005年の展覧会「尾上松之助と時代劇スターの系譜」(於フィルムセンター展示室[7階])の概要、チラシならびに出品リストは、以下のURLを参照のこと。
(概要)https://www.nfaj.go.jp/FC/OnoeMatsunosuke/index.html
(チラシ)https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2021/03/200504ex.pdf
(出品リスト)https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2021/03/200504exlist.pdf