「映画 meets 歌舞伎」とは
ご挨拶
映画(活動写真)が我が国に渡来したのは明治30(1897)年、今から約130年前のことでしたが、この舶来のメディアは、日本で何と出会ったのでしょうか。
明治32(1899)年には、日本映画(日本人の手で撮影された活動写真)の公開も始まります。被写体に選ばれたのは日本橋や銀座など名所の風景、著名な芸妓たちの手踊りでしたが、同年には九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎の「紅葉狩」、また翌33(1900)年には初代中村鴈治郎の「鳰の浮巣」も映画のフィルムに収められています。ここから、明治の日本人の関心が何に向けられていたか、そして歌舞伎の役者や演目が早くから大きな位置を占めていたことがわかります。
明治40(1907)年に映画館の建設が本格化し、翌41(1908)年に撮影所の建設が始まると、先行する日本の芸能に材をとり、芝居の役者たちを出演させて量産される劇映画と、弁士による語り芸の人気があいまって興行街を席巻することになりますが、その中から最初の映画スターとなり、明治・大正期の映画界に君臨した尾上松之助(「目玉の松ちゃん」)も、そのライバルとしてファンを魅了した澤村四郎五郎も、歌舞伎出身の役者でした。映画と歌舞伎が、地続きの関係を結び花開かせたとも言えるこの巨大なエンタテインメントの文化は、しかしながら、現在の我々にとっては失われ、謎に満ちた文化でもあります。
無数の大当たりを生んだこの時代の映画も、そうした観客の人気とは対照的に、日本映画の西欧化を目指した「純映画劇運動」の側からは、それ以前の原始形態とみなされてきた経緯があり、このような従来の映画史観が見直されるようになったのはまだ近年のこととなります。また、実際の映画の大部分が失われてしまったことも、この時代の正しい歴史的な位置づけを困難にしてきた原因の一つとなっています。
本サイトは、奇跡的に散逸を免れ国立映画アーカイブが所蔵する貴重な4本のフィルムをデジタル化、配信公開するものです。映画と歌舞伎を横断して、広く多くの研究者、観客が、実際の映像に触れつつ、様々な角度から日本映画の形成期を再考するきっかけとなることを願います。
国立映画アーカイブ
*上記のうち、『紅葉狩』(1899年)と尾上松之助主演の『忠臣蔵』(1910-1915年頃)は当館が運営する別のサイト「映像でみる明治の日本」( https://meiji.filmarchives.jp/)で御覧になることができます。