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尾上松之助―日本最古の映画スター“目玉の松ちゃん”のすべて

イントロダクション

日本映画史最古のスターに関するイベント

入江良郎(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員*)

 フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)では、2005年の4月から10月にかけて日本最古の映画スター、尾上松之助(1875-1926)に関する展覧会「尾上松之助と時代劇スターの系譜」を開催した。
 無名の、旅回りの歌舞伎役者であった松之助が「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三監督に見出され、横田商会(後に日活に統合)の『碁盤忠信』に初出演したのは明治42(1909)年のこと。これは映画が日本に渡来した明治29(1896)年から数えて13年目、日本人の撮影による映画が初めて公開された明治32(1899)年から数えて10年目、日本初の映画スタジオが完成した明治41(1908)年の翌年にあたる。
 小柄でケレンを得意とした松之助は、歌舞伎の影響を残す「旧劇」のジャンル(後の時代劇)に剣戟やトリックを多用した活動写真ならではの魅力を開拓して新風を巻き起こし、その後も大正15(1926)年に50歳で他界するまで17年間にわたりスターの地位を維持し続けたが、その業績は日本人の間でも急速に忘れ去られようとしているのが現状である。そこで開かれた本展は、松之助の生誕130周年を記念して、彼に関する資料を集め展示することで、あらためて偉大なパイオニアの足跡をたどろうとしたものである。
 尾上松之助は明治8(1875)年の9月12日に岡山県に生れた。本名は中村鶴三。大正10(1921)年に刊行された『尾上松之助自叙伝』(春草堂出版部)[注1]によれば、早くも5歳のときに二世尾上多見蔵一座の芝居に出演したのがきっかけで芝居の魅力にとりつかれ、14歳になると家出をして旅役者の世界に飛び込んだ。明治25(1892)年には「尾上鶴三郎」を名乗ったが、明治37(1904)年に「尾上松之助」を襲名している。つまり、松之助が映画デビューを果たしたのは34歳のとき、既に20年間の舞台経験を積んでいたことになる。
 大正初期につくられた松之助映画のポスターやチラシはフィルムセンターの最も重要なコレクションとなっているが、それらのデザインや、当時流行していた歌舞伎役者の人気を示す番付の内容は、歌舞伎と映画がいまだ地続きであった時代を彷彿とさせるものである。大正7(1918)年の番付(「全国俳優大見立」)には、当時の名だたる歌舞伎役者たちに混ざって尾上松之助の名前、顔写真が、「活動写真旧劇元祖」という特別なくくりで掲載されているのを見ることができる[図1]

図1:全國俳優大見立(大正7[1918]年)

 また、現存する松之助映画の一つ『忠臣蔵』(明治43-大正元[1910-12]年)で松之助は主要な登場人物三役を一人で演じている。これは、初期の日本映画が著名な物語の見せ場の一つ一つをフィルムとして独立させることで成立していたこと、またときにはこの作品のように新たに撮影された場面を順次前の映画に継ぎ足しながら次第に長尺化していったという経緯にも由来している。しかしより大きな背景として、一人の役者が複数の役柄をこなすことそのものが歌舞伎の世界では常套とされてきたものであり、すなわち観客たちは劇中の登場人物やそれらの葛藤よりも役者の姿を見物することに重きを置いていたという事実も視野に入れなければならないだろう。
 一方、当時の松之助映画の観客たちが残した証言を見ると、増幅するスターのイメージと実際の映画館での体験の微妙な落差を示す初期映画ならではのエピソードも垣間見られて興味深い。カラフルで迫力あふれる絵看板につられて映画館に入ってみると、白黒映画のスクリーン上で松之助と闘う怪物の狒々がいかにも貧相な着ぐるみであったこと。松之助の小さな体格、サルのような顔に拍子抜けしたこと。松之助はギョロリと大目玉をむいて見得を切る演技が評判を呼んだことから「目玉の松ちゃん」と呼ばれていたが、実際の松之助は目が大きくなかったこと・・・。
 その反面、彼の演じるあらゆるヒーローが「本物」に見えたというのは、大人も子どもも含めた当時の観客たちの共通する感想である。松之助は講談に登場する英雄や忍者を片端から演じた。実際には歴史上の人物であったり空想の中の人物であったりするそれらの役柄と松之助がどれくらい似ていたのか、誰にも答えることはできないのだが、ただ一つはっきりしていることは、歌舞伎出身の映画俳優は決して松之助一人ではなく、演技力を売り物にする役者も、スタイルの良い役者もいた中で、松之助の人気と知名度は他を全く寄せ付けなかったことである。映画というメディアと松之助との相性の良さは今なお興味の尽きない研究対象である。
 事実、尾上松之助は最古のスターであると同時に日本映画史上最大のスターであった。松之助と彼の映画については伝説的なエピソードが多々残されているが、それらの中には現在の観客の想像を超えるような内容のものも少なくない。
 人気のピークにあたる大正7(1918)年頃、当時興行街の中心であった浅草には松之助映画の封切館が3館あり、10日おきに3種もの新作が同時に3館のスクリーンを飾っていた。松之助映画は3日に1本という早さで作られていたのである。生涯に出演した映画の数は1,000本を超えたともいわれており、事実大正14(1925)年には「一千本記念映画」をうたった『荒木又右衛門』が公開されている。横田商会の『改正 活動写真目録』(明治44[1911]年)によれば、デビュー作『碁盤忠信』の長さは「六四七」フィート(16コマ映写で約11分)とあるが[注2]、大正8(1919)年頃に作られた松之助映画の引札を見ると当時の作品は「七巻」(16コマ映写でおよそ2時間)にまで長尺化していたことが判る[図2]。

図2:浅草富士館 引札(『本傳 佐野鹿十郎』[大正8(1919)年頃])

 もっとも、この大正8(1919)年頃は欧米の映画に範を仰いだ《映画劇革新運動》により日本映画の話法が大きな変化を遂げる節目にもあたる。その中には女形の廃止と女優の採用、声色弁士の廃止とインタータイトルの採用、標準速度(秒速16コマ)での撮影もかかげられていたが、革新派が唱えるそのような理想の、ちょうど対極にあったのが松之助映画であったことも事実である。
 晩年の作品を除けば、松之助映画は歌舞伎と同様に女形が登場するものであったし、フィルムの消費を惜しむあまりときに撮影速度を秒速8コマにまで落とすという日活京都撮影所の倹約ぶりや、人物の目鼻が飛ぶほどの露光オーバーなどは、いずれも原始的な映画撮影術の代名詞のように語り継がれてきたものである。これらは旧来の映画史で松之助の評価がおとしめられてきた要因でもあるが、声色弁士については驚くべきエピソードが残されている。日活は松之助映画のため本人にそっくりな声質を持つ弁士ばかりを集め、これらを全国365もの系列館に配備していたというのである。このエピソードを語ったのは後に時代劇の大監督となる稲垣浩であるが、彼が日活に入社した後、初めて耳にした実際の松之助の声はかつて映画館で聞いたものとそっくりだったというのである[注3]。
 こうしたエピソードは、現在の尺度だけでは測ることのできない巨大な映画文化、芸能文化が存在したことを雄弁に物語るものであるが、残念ながら今も現存する松之助映画はある程度の長さを維持しているもので5、6本程度を数えるに過ぎず、尾上松之助の再評価を妨げている。フィルムセンターの展覧会は資料や映像から、可能な限り松之助の伝説と実像を浮かび上がらせようとしたものであり、当時のポスター、チラシや子供向けの双六、松之助一座の幹部を写したプロマイド(絵葉書)、あるいは松之助本人の遺品に含まれていた写真、沿道に20万人の見物人を集めたという葬列の記録映像などを展示した。展示品の中には松之助が使用していた小道具の刀や松之助の肉声を録音したレコードの音声など、新たな発掘、再発見の成果も含まれている。刀は大正期以来の伝統を持つ小道具会社である高津商会が保管していたものである。また松之助の声については様々な証言、エピソードが残されているが、にもかかわらず松之助の肉声を吹き込んだレコードの存在はほとんど知られていなかったものである。
 このような展示に加え、大ホール(現・長瀬記念ホールOZU)では、生誕記念日の9月12日を目前に控えた9月10日に1日限りのイベント「尾上松之助 生誕130周年記念講演・特別上映会」を開催し、記録フィルムを含む6本を一部弁士公演付で上映するとともに(弁士=澤登翠/伴奏=村井音文)[注4]、第一線の映画研究者、演劇研究者を招き、松之助の業績をめぐり様々な角度から検証を行った。
 また『NFCニューズレター』では、松之助映画の封切りリストを掲載した[注5]。1,000本ともいわれる松之助映画のリストの編纂は、かねてより映画史家やカタロガーを悩ませてきた問題である。これまでに映画評論家や映画史家が発表したものでは、大正14(1925)年の岡村紫峰『尾上松之助』(活動新聞社)に955本[注6]、1977年の吉田智恵男編「尾上松之助映画全作品リスト」(『映画史研究』No.9)には968本のタイトルが記載されているが[注7]、今回のリストは松之助が活躍の拠点としていた京都の新聞広告や記事をもとにしたものであり、情報の出典を明記した(すなわち現在でも公開の事実を具体的な資料で証明できるうえ、後続の研究者による追跡調査を可能にする)初めてのリストである。もちろん将来のアップデートを視野に入れた中間報告的な資料ではあるが、現在そこには922本のタイトルが記載されている。

  1. 『尾上松之助自叙傳 尾上松之助述 磯野松風編』(春草堂出版部、1921年)
  2. 「田中純一郎旧蔵・『横田商会 改正 活動写真目録』写真復刻と解説」(映画史研究誌刊行委員会編『日本映画史探訪3 「映画への思い」』田中純一郎記念第三回日本映画史フェスティバル実行委員会、2000年)65頁。
  3. 「再録⓬尾上松之助譚」(尾上松之助、中村房吉『岡山文庫 178 目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界―』日本文教出版、1995年)130-131頁。引用文の語り手と出典は「岡山県出身映画監督・稲垣浩・日刊スポーツ紙より」となっている。
  4. 当日上映された映画作品は以下の通り(特記のないかぎり、国立映画アーカイブ所蔵)。
    『史劇 楠公訣別』(17分、16fps、35㎜)1921年、日活
    『忠臣蔵』[活弁トーキー版](42分、35㎜)1910-12年、横田商会
    『忠臣蔵 天の巻 人の巻 地の巻』[部分](20分、16fps、35㎜)1926年、日活
    『豪傑児雷也』(21分、16fps、35㎜)1921年、日活
    『弥次喜多 善光寺詣りの巻』(61分、18fps、16㎜)1921年、日活(京都府京都文化博物館所蔵)
    『渋川伴五郎』(63分、24fps、16㎜)1922年、日活(弁士:澤登翠、伴奏:村井音文)(京都府京都文化博物館所蔵)
  5. 本サイトで公開している大矢敦子「尾上松之助フィルモグラフィー」の初出にあたるもので、「尾上松之助映画京都封切リスト」の題で3回に分けて掲載された(『NFCニューズレター』第63号、2005年10月-11月号、11-16頁/第64号、2005年12月-2006年1月号、11-16頁/第65号、2006年2月-3月号、13-16頁)。
  6. 「自明治四十二年九月至大正十四年二月 壹千本撮影記念藝題表」(岡村紫峰『尾上松之助』活動新聞社、1925年) (1)-(19)頁。
  7. 吉田智恵男編「尾上松之助映画全作品リスト」(佐藤忠男編『映画史研究』第九号、1977年)38-43頁。

*肩書はブックレット刊行当時(2007年3月)。現職は、国立映画アーカイブ主任研究員。

なお、上記のイベント「尾上松之助 生誕130周年記念講演・特別上映会」の概要は、以下のURLを参照のこと。
https://www.nfaj.go.jp/FC/OnoeMatsunosuke/onoe-koenkai.html